7月26日午後6時より、杉並公会堂で「星野文昭さん追悼 獄死・国家犯罪を許すな7.26全国集会」が開かれました。5月30日夜、獄中での肝臓がん手術後容体が悪化して急逝された星野文昭さんを偲んで、720名が参加しました。
最初に、星野文昭さんの闘いの歩みを記録したビデオが上映されました。学生時代の星野さんの肉声や三里塚でのデモ指揮の様子、また、ペテン的な沖縄返還協定反対の沖縄での労働者のデモやゼネスト、これに連帯する東京での渋谷闘争などが映し出されました。なにより、逝去直後の星野文昭さんの穏やかな顔が「同志は倒れぬ」という厳かな歌声と共に映し出されました。獄中44年の闘いを経て、こういう形での多くの人々との対面となったことに、言葉もありませんでした。
主催者あいさつに立った全国再審連絡会議共同代表の戸村裕実さんは、今後の闘いとして、星野さんの命を奪った徳島刑務所・四国更生保護委員会、東日本医療センター、法務省にその責任を取らせる国家賠償請求訴訟をおこす。また、星野さんの無実を晴らすために家族が継承して第3次再審請求を行う、そして、星野さんと共に闘いでっち上げ逮捕された大坂正明さんの裁判に勝利しようと訴えました。

また、6月9日に逝去された僧侶の青柳晃玄さん(暁子さんと獄中結婚するまで、星野さんの身元引受人をされていた方)への追悼が「群馬星野文昭さんの再審を実現する会」の方からありました。
続いて、星野さん奪還の闘いに尽力された方々から追悼の言葉がありました。星野文昭さんと暁子さんをモデルにした演劇「ブラインド・タッチ」を作・演出された坂手洋二さんからはビデオメッセージが届きました。

四国更生保護委員会へ星野さんの医療検査を強く申し入れていた元参議院議員で弁護士の角田義一さん、NHK近くで“自動車の窓ガラスが光って見えた”という星野さんの無実を示す証言を自らの体験から真実だと確信されたという元NHKディレクターの永田浩三さん、ドキュメンタリー映画「獄友」監督の金聖雄さん、獄中医療の問題性を指摘されている医師の山田真さんなど多くの方々が自らの思いを語りました。
また、糸数慶子参議院議員、新井眞理佐渡市議会議員、トルコ国際労働者連帯協会ほか多くの人々から追悼のメッセージが届きました。

休憩後、星野文昭さんと暁子さんの歌を作曲されてきた丸尾めぐみさんと福山竜一さんの心を込めてた歌がありました。星野暁子さん作詞の「あの坂を登って」は、暁子さんが文昭さんに面会に行くときの思いが歌われていますが、ピアノを弾きながら歌い終えたとき丸尾さんは「この歌はこれから、歴史の証言の歌になる」と感慨深く言われました。

弁護団報告では、星野文昭さん解放に全力を傾けてこられた岩井信弁護士、藤田城治弁護士が、国賠訴訟、第三次再審闘争への新たな決意を語られました。岩井さんは、「星野さんが昨年8月に倒れたとき、徳島刑務所は胃痙攣と診断し一日だけ作業を休ませただけだった。その後星野さんは、食欲が減退し体重がどんどん減っていった。だから、私たちも外部の病院できちんと検査を受けるべきだと繰り返し申し入れてきた。3月にエコー検査をしたがその結果が知らされないまま、仮釈放は却下された。四国更生保護委員会の仮釈放審議において本人の心身の状況は調査事項だ。星野さんの死亡診断書には『巨大な腫瘍』の切除術を行ったと書いてある。この巨大な腫瘍を作らせたのはだれか、真実を明らかにしていきたい」と述べました。

また、大坂正明さんの弁護も担当されている藤田城治弁護士は、法務省は大坂裁判を裁判員裁判にして早く有罪判決にしようとしている、裁判員裁判に反対していこうと訴えました。
さらに、星野文昭さんの意思を引き継ぐ闘いとして、再審連絡会から狩野満男共同代表、地元杉並からほらぐちともこ区議会議員、全学連から高原恭平委員長からの発言がありました。
そして、最後に、お連れあいの星野暁子さん、お従兄の星野誉夫さんが登壇しました。
暁子さんは、「文昭の獄中44年の闘いを無駄にしたくない。ふりかけとみそ汁しか出ない徳島刑務所の朝食を食べながら、文昭は全世界のことを思って生き抜いてきた。国賠と第三次再審に勝利することを、“おとしまえ”をつける裁判として、人間が人間らしく生きられる裁判としてやっていきたい」と爽やかな、きっぱりとした口調で訴えました。誉夫さんは、文昭さんとは考え方に違う点もあるけれども、一日も早く外に出て二人が幸せになれるようにと全力を尽くしてきたこと、支援者へのお礼の言葉がありました。

ロビーには、星野さんの子どものころからの写真が展示され、多くの人が会うこともできなかった星野さんを偲びました。

改めて、星野さんの闘いに学ぶとはどういうことかと考えました。星野さんはあの狭い獄中で、劣悪な環境の中で、時には不当な懲罰房の中で、「人間らしく生きよう」と自らの生命を生き貫かれた。44年もの長い間、それができたのはなぜだろうか?
もちろん、家族・支援の存在は大きいと思うけれど、星野さんがいつもわが身を労働者民衆のド真ん中に置いていたからではないかと思います。そして、沖縄民衆の怒りや悲しみ、世界中で虐げられている人々の怒りが悲しみを感じとり、支配者・権力者の差別・分断・理不尽に対して共に怒っていたからだと思います。また、わが身に降りかかる理不尽や困難に対し自らがそれを一つ一つ打ち破り乗り越えていくことを通して、労働者民衆の苦闘に連帯し、共に進み、そうして団結を広げていく中に、未来を切り開く力を創っていくことができるという確信を持っていたからだろうと思います。
そういうふうに生きていけるようがんばりたいです。(S)
最初に、星野文昭さんの闘いの歩みを記録したビデオが上映されました。学生時代の星野さんの肉声や三里塚でのデモ指揮の様子、また、ペテン的な沖縄返還協定反対の沖縄での労働者のデモやゼネスト、これに連帯する東京での渋谷闘争などが映し出されました。なにより、逝去直後の星野文昭さんの穏やかな顔が「同志は倒れぬ」という厳かな歌声と共に映し出されました。獄中44年の闘いを経て、こういう形での多くの人々との対面となったことに、言葉もありませんでした。
主催者あいさつに立った全国再審連絡会議共同代表の戸村裕実さんは、今後の闘いとして、星野さんの命を奪った徳島刑務所・四国更生保護委員会、東日本医療センター、法務省にその責任を取らせる国家賠償請求訴訟をおこす。また、星野さんの無実を晴らすために家族が継承して第3次再審請求を行う、そして、星野さんと共に闘いでっち上げ逮捕された大坂正明さんの裁判に勝利しようと訴えました。

また、6月9日に逝去された僧侶の青柳晃玄さん(暁子さんと獄中結婚するまで、星野さんの身元引受人をされていた方)への追悼が「群馬星野文昭さんの再審を実現する会」の方からありました。
続いて、星野さん奪還の闘いに尽力された方々から追悼の言葉がありました。星野文昭さんと暁子さんをモデルにした演劇「ブラインド・タッチ」を作・演出された坂手洋二さんからはビデオメッセージが届きました。

四国更生保護委員会へ星野さんの医療検査を強く申し入れていた元参議院議員で弁護士の角田義一さん、NHK近くで“自動車の窓ガラスが光って見えた”という星野さんの無実を示す証言を自らの体験から真実だと確信されたという元NHKディレクターの永田浩三さん、ドキュメンタリー映画「獄友」監督の金聖雄さん、獄中医療の問題性を指摘されている医師の山田真さんなど多くの方々が自らの思いを語りました。
また、糸数慶子参議院議員、新井眞理佐渡市議会議員、トルコ国際労働者連帯協会ほか多くの人々から追悼のメッセージが届きました。

休憩後、星野文昭さんと暁子さんの歌を作曲されてきた丸尾めぐみさんと福山竜一さんの心を込めてた歌がありました。星野暁子さん作詞の「あの坂を登って」は、暁子さんが文昭さんに面会に行くときの思いが歌われていますが、ピアノを弾きながら歌い終えたとき丸尾さんは「この歌はこれから、歴史の証言の歌になる」と感慨深く言われました。

弁護団報告では、星野文昭さん解放に全力を傾けてこられた岩井信弁護士、藤田城治弁護士が、国賠訴訟、第三次再審闘争への新たな決意を語られました。岩井さんは、「星野さんが昨年8月に倒れたとき、徳島刑務所は胃痙攣と診断し一日だけ作業を休ませただけだった。その後星野さんは、食欲が減退し体重がどんどん減っていった。だから、私たちも外部の病院できちんと検査を受けるべきだと繰り返し申し入れてきた。3月にエコー検査をしたがその結果が知らされないまま、仮釈放は却下された。四国更生保護委員会の仮釈放審議において本人の心身の状況は調査事項だ。星野さんの死亡診断書には『巨大な腫瘍』の切除術を行ったと書いてある。この巨大な腫瘍を作らせたのはだれか、真実を明らかにしていきたい」と述べました。

また、大坂正明さんの弁護も担当されている藤田城治弁護士は、法務省は大坂裁判を裁判員裁判にして早く有罪判決にしようとしている、裁判員裁判に反対していこうと訴えました。
さらに、星野文昭さんの意思を引き継ぐ闘いとして、再審連絡会から狩野満男共同代表、地元杉並からほらぐちともこ区議会議員、全学連から高原恭平委員長からの発言がありました。
そして、最後に、お連れあいの星野暁子さん、お従兄の星野誉夫さんが登壇しました。
暁子さんは、「文昭の獄中44年の闘いを無駄にしたくない。ふりかけとみそ汁しか出ない徳島刑務所の朝食を食べながら、文昭は全世界のことを思って生き抜いてきた。国賠と第三次再審に勝利することを、“おとしまえ”をつける裁判として、人間が人間らしく生きられる裁判としてやっていきたい」と爽やかな、きっぱりとした口調で訴えました。誉夫さんは、文昭さんとは考え方に違う点もあるけれども、一日も早く外に出て二人が幸せになれるようにと全力を尽くしてきたこと、支援者へのお礼の言葉がありました。

ロビーには、星野さんの子どものころからの写真が展示され、多くの人が会うこともできなかった星野さんを偲びました。

改めて、星野さんの闘いに学ぶとはどういうことかと考えました。星野さんはあの狭い獄中で、劣悪な環境の中で、時には不当な懲罰房の中で、「人間らしく生きよう」と自らの生命を生き貫かれた。44年もの長い間、それができたのはなぜだろうか?
もちろん、家族・支援の存在は大きいと思うけれど、星野さんがいつもわが身を労働者民衆のド真ん中に置いていたからではないかと思います。そして、沖縄民衆の怒りや悲しみ、世界中で虐げられている人々の怒りが悲しみを感じとり、支配者・権力者の差別・分断・理不尽に対して共に怒っていたからだと思います。また、わが身に降りかかる理不尽や困難に対し自らがそれを一つ一つ打ち破り乗り越えていくことを通して、労働者民衆の苦闘に連帯し、共に進み、そうして団結を広げていく中に、未来を切り開く力を創っていくことができるという確信を持っていたからだろうと思います。
そういうふうに生きていけるようがんばりたいです。(S)