明日で3・11東日本大震災から丸12年となります。あってはならなかった福島原発事故から12年です。大地震・大津波で筆舌に尽くせぬ大惨事となり、さらに福島第一原発の爆発で大量の放射能が放出され、多くの命が奪われ、生活が破壊され、いまなお放射能汚染は続いています。

その解決に全力を尽くすべき政府・東電は、責任を放棄して被災者を見捨てています。岸田政権は大軍拡と一体で原発推進に突き進んでいます。絶対に許せません!

2月26日に杉並で行われた「ビキニデー企画~汚染水海洋投棄をとめよう!講演集会」(主催:NAZEN東京)で福島・浪江町の吉澤正巳さんからの火を吐くような訴えがありました。3.11を前にして、この福島の怒りを共有し、7月ごろと言われる放射能汚染水の海洋放出を阻止していきましょう。吉澤さんの訴え(抜粋)を紹介します。(T)

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 いま牧場には200余の被曝した牛がいます。最後までこの牛の世話を続けて、国がいま原発時代に逆戻りをたどろうとしている時、原発の時代を乗り越えていくという強い気持で、国の方針に反する闘いの場所として牧場でがんばります。
 住んではいけない場所に住んで、僕も牛も被曝している。だけど僕は命の扱いはどうすべきだということをずっと考えてきました。あまりにもひどい命の扱いがそこら中にありました。2万1500人が住む浪江町は双葉郡で一番大きな町でした。漁港のある請戸は津波で壊滅され約200人の人が死にました。

 2011年3月11日に逃げて、12日は1号機が爆発し全町避難となった。避難について浪江町役場からもどこからも連絡も指示はなく、ひたすら逃げて、山間部の津島に7~8000人の人が4日間とどまっていました。3月14日には3号機が爆発し、3月15日になってようやく役場から連絡がありましが、それは「とんでもない放射能が津島に来ている」という連絡で、みな大慌てで、総崩れの状態で二本松の東和というところに逃げこんだ。浪江町からはほったらかしにされ、原発の連続爆発の中を「逃避行」を続けました。あの情景を僕は忘れません。津島には自衛隊の装甲車がずらっと並んでいました。部隊も大垣ダムの手前にテントを張って野営していたんです。ところが、あっという間にいなくなるんですね。まさに戦場のような雰囲気でした。それから、浪江町の住民は散り散りになりました。
 浪江町は小高・浪江原発反対運動があって、用地買収は98%まで進んで反対運動は崩れたんですが、反対の地権者が2人残ったんです。2%の土地がどうしても買収できないということで白紙に戻ったんです。しかし、3.11がなかったら今頃7号機8号機の建設工事になっていたかもしれません。
 僕は浜通りのあの地域は原発銀座、原発中毒の場所と言うんです。いいも悪いもなく、そういうものにみんなが巻かれて、役所もそれにぶら下がって、あるいはたかっていたんだと僕は思います。
 福島県の海岸線には発電所がずらっと並んでいます。いわきの勿来(なこそ)共同発電所、でかい広野火力発電所、福島第一原発、第二原発、原町火力発電所がある。相馬の方には東北電力と東電との共同発電所がある。その電気は関東、首都圏、東京にいくんです。埼玉県750万人の電力は福島県が支えるんです。茨城県300万人も、東京1500万も支えるんです。60年間そうしてきました。福島は電力供給植民地で、ただただ電力を供給する、それが浜通り地方です。追い出されて、ようやくとんでもないことだと気づいたわけです。避難ということは本当に大変でとんでもないことだったのです。

 僕は渋谷のスクランブル交差点で街宣しますが、「渋谷の電気はどこから来てるんだ。いまも福島が支えているんだ。福島からの避難の人をいじめないでくれ。なんで放射能ばい菌なんて言うんだ。なんで福島から嫁をもらうななんて言うんだ。東京オリンピックがやられるって言うけどふざけんな」と言ってきたんです。渋谷駅周辺はものすごいビルがまばゆい光を放って大量の電気を使っています。福島の犠牲の上に、福島を差別して東京のこの無限の一極集中、東京大都会のエゴの姿が東京オリンピックだと思っています。
 東京に対して、じゃあ、僕たちの浪江はどうなのか。もう「さよなら」です。今年正月の役場の発表では、戻った人は1300人です。作業員の方も含め1700名です。これが今の浪江の姿なんです。町は更地です。思い出の浪江小学校、中学校は解体工事で全部更地。オリンピックの最中にそれをやりました。浪江の人たちは心が折れてしまうんです。浪江の人たちは自分たちのルーツが根こそぎ引っこ抜かれて追い出され、散り散りになってしまった。避難した人たちはそこで新しく家をつくった。移住なんです。もう帰るのは難しいんです。かつて浪江町には小学校が6校、中学校が3校で1700人いた。高校は2校あった。全部廃校になりました。いまは創成浪江小中学校に子どもたちは40人で、スクールバスで隣の南相馬から通うんです。はっきり言います。アリバイの町なんだ。中身のない、人は住まない空洞化した町、形だけを残した町なんです。自治体存続の意味があるのか。国からは道の駅「浪江」や港の整備に金はきます。でも請戸にはもう誰も住めないんです。それなのに、「請戸の魚を食べましょう」「シラス、刺身定食」。それが町のメイン宣伝なんです。印刷物はみんな請戸というマークをつけている。請戸キャンペーが行なわれているんです。僕は街宣車を走らせて言います。漁港から6キロのところに汚染水が放出されて請戸が成り立つのか。成り立つわけはないだろう。請戸漁港も難しくなるといいます。

 昔、1980年にホッキ貝にコバルト60が見つかりました。東電は昔も放射能を流していたんです。大騒ぎになって、浜通りではホッキ貝もなにも売れなくなって東電は総額5億円の弁償をしました。汚染水放出が始まったら、そういうことの繰り返しだと思います。去年1月過ぎに相馬沖16kmのところで1400ベクレルの黒ソイという魚が見つかった。国が決める14倍。福島県知事・県庁は国の言いなりで、内堀知事は東京に行って、常磐ものの魚の宣伝をやっている。「カレイ、おいしい、安全だ、安心だ」と言っている。嘘です。福島県漁業の安心・安全を誰が守るのか、これが大事なのです。みんなの食生活にダイレクトに結びつく大事な問題なのです。今年の2月7日にはスズキから85ベクレルが検出された。汚染水放出後はそういうことがどんどん出ると思います。
 北茨城市の大津漁港はインチキをやったんです、基準値を上回るレベルの白魚の加工品をなんとか売ってしまおうと漁協がもめたんです。良心的な漁協職員が内部告発をしました。そしたらその人は組合長に首を切られ、いま裁判をやっています。漁協だってバレなければ市場に売ってしまうことをやるんですよ。福島県の魚の検査は、僕はザルだと思うんです。全量検査などしない。お米は全量検査をしました。だけど今日あがる魚はサンプル検査、ごく一部の魚しか調べない。だからもっと検査の精度をあげて、調べる放射性物質の種類も60種くらいにする、東電は20種類に絞ろうとしてます。経産省などはトリチウムしか言いませんがそうではない。海洋放出を続けていけばあの水俣の海になるんじゃないかと考えました。チッソは有機水銀の海水を薄めて流し続けて水俣の海になり、水俣病になり、長い裁判闘争にもなりました。そしてやっと国は責任を認めて補償になりました。
福島の原発汚染水のタンクの底はそうとうヤバイそうです。爆発原発の汚染水なんで底に沈殿している。それを薄めて安全だと海に流す。そんなのあり得ないよね。
吉澤さん

 僕たちは福島で生きていくしかありません。僕は折り合いをつけていくしかないと覚悟してるんです。それで死んじゃうということでもないので。そうでなければ浪江の復興なんてないんです。覚悟してもそこに家族や子ども連れて戻るというのはハードルは高すぎるからみんな帰って来ないですよ。
 いま福島県では、すごい地震が毎年来ている。日本一地震が多いところです。福島県は地震や津波は終ってないと思います。いまつくっている堤防は7mくらいですが3.11の津波は15mです。堤防を軽々と乗り越えて双葉町の伝承館周辺、復興拠点の中心は泥だらけ、水浸しになるんですよ。でも10mの堤防をつくるとなるととてつもない大工事になり費用対効果で10mが限度です。相馬共同火力発電所は去年3月の地震で、8ケ月間停まりました。これからも大地震で首都圏「計画停電」があると僕は見ています。

 僕は先日舞鶴に行きました。ここは高浜原発、原子炉に制御棒を落っことしちゃって放射能漏れ寸前のトラブルのあったところの近くなんです。福井県の原発自体も危ないです。
 舞鶴は海上自衛隊の、日本海側の唯一の基地があります。空母が、イージス艦が、護衛艦がずらっと並んでいる。いま海上自衛隊の司令部を地下につくる工事が始まるんだそうです。僕はカウ(cow)ゴジラの街宣車で、「そんなものをつくって意味があるのか」「ウクライナ戦争を見ろ。ミサイル雨あられだ」「アメリカもロシアも地下何十メートルも深く貫通するバンカーバスターミサイルをもっている。そんなものつくったつてナンセンスだ」と街宣しました。自衛隊の空母だってミサイル攻撃を受けたらたまんない。ウクライナ戦争でロシアの空母「モスクワ」がミサイル2発でぶち壊されたでしょ。

 舞鶴というのは僕の親父が、シベリア抑留の末に引き上げてきて上陸した場所なんです。アジア太平洋戦争のとき、日本は国策として中国大陸に侵略を行ない、そこに満州開拓団を大量に送り込んだ。誰がやったのか。岸信介です。忘れちゃいけない。日本は戦争に負けて、満州開拓団はひどい目にあいました。関東軍、満鉄の連中はさっさと逃げ、開拓団は取り残されました。沖縄の戦争末期と同じような光景、集団自決がそこら中に起きたんです。そして子どもたちが置き去りにされて残留孤児になった。ウチの親父は『僕ら開拓団』という記録集の中で書いています。「(開拓団は)子どもたちを、親を銃で殺してしまった」。生前そのことは決して言わなかったんですが。そしてバイカル湖のほとりのマイナス30~40度Cのところで森林伐採の強制労働を3年間をやった。大勢の日本の仲間はそこで死んだそうですけど、親父は生きて帰れた。僕は安倍晋三と同い年なんです。安倍政治のルーツは何なんだ、岸信介だ。僕のルーツは何なんだ。親父の満州開拓、シベリア抑留なんだ。ウチの親たちがそういう時代を通り抜けたから、僕はそういう時代に戻ってはいけない、原発の放射能もれの浪江のような姿をつくってはいけないと思います。そのために、僕は残りの人生を、浪江の語り部として続けていきたいと思います。

 あの大震災のなかで、人々は、人間はどのように命を扱ったかです。震災関連死は浪江町で450人。10人近い自殺者。役場の近くに帰れた人が、90歳代のじっちゃんの面倒を見ていた50代の娘さんがじっちゃんを殺して自分も自殺したんです。役場の近くなのに何か月もたってからそれが見っかったんです。浪江の津島の人が腹を斬りました。切腹です。人は自分の腹を包丁で切って死ねるか。死ねない。三島由紀夫だって、切腹してすぐ仲間に首を落としてもらっている。浪江の人たちの無念の気持がそういうすごいことをやったということに僕は衝撃を受けました。

 僕ができることはカウゴジラの街宣車で北海道から沖縄まで出かけることだと決めたんです。僕は沖縄に行って、ようやく沖縄の皆さんの基地問題の苦しさを理解できるという気持になったんです。国策の根幹である米軍基地問題と原発事故の問題はあまりにも根が深く相手が巨大です。でも沖縄の皆さんを学んで、連帯をしながら戦争に戻らないこと、原発事故が起きないことを願います。僕らは言っているだけ、思っているだけではだめなんです。行動なんです。行動によって道をつくるんです。

 僕は「さようなら浪江町」を掲げて町長選挙に立候補しました。怒る人もいた。「やめろ『浪江町さようなら」という表現は」と。浪江町役場のところには「おかえりなさい浪江町」という看板が出ています。僕は言いました。「帰ってこないじゃないか。その見通しもないじないか、だからさようならなのだ。村になっていくんだよ。そのことはみんながわかっている現実なんだよ。人が戻らず、人がいないんだから。アリバイなんだ」
 オリンピックの時、オリンピック歓迎式典で、漁協の人が大漁旗を振った。僕は言った。「コロナパンデミックの中で何百万人も人は死んでるのにオリンピックが成功するわけはない」「漁師のみなさん!オリンピックの後に来るのは汚染水放出じゃないか。なんで請戸漁協のみんなは闘わないんだ。反対運動に立ち上がらないのか。『腰抜けか』」。若い漁師が怒って出てきてケンカになって、警備の警官が出てきて「式典なんで、けんかなんかしないでくれ」。僕は「こっちは本気なんだ。原発の地元で、漁業補償金にまみれた、そういう場所ですよ、請戸は。繰り返し繰り返し補償金をもらって。結局は自分たちの首をしめる未来予想図は迫っているわけです」と言いました。今年の正月の出初式で、漁師は「俺たちは汚染水放出を理解もしてない。反対だ」と言っていました。でも行動はないんです。浪江の未来を考えたとき、なんとか抵抗して闘っていかねばと思います。

 あとね、いま浪江町の高瀬川の水がおいしいと話題なっています。「モンドセレクションで金賞受賞した」とイオンスーパーや道の駅で売っています。ところがその高瀬川は渓流釣りは禁止です。いわな、やまめ、鮎には放射能が出ます。でも町営ポンプ場で汲み上げた水がおいしいって売り出しているんです。「逆転ひねり技の復興宣伝」です。12年前放射能が一番流れていたその場所だったのにリセットなんです。「問題ない、おいしい」。「前を向け、後ろを向くな」。復興の縛りがガンガン始まってるんです。でもみなさん、絆はもう終わったんです。町民は帰ってこない。みんなそのことを知っているんです。

 人間として生きていく大事なすじ金は希望なんです。絶望状況のなかにあって、人間が最後にたよる大事なすじ金は希望なんです。それは与えられるものではなく、用意されるものではないんです。自らが考えて、自らの行動によって、希望をつくるしかないんです。だからわれわれはつぶされてはならないんです。
 僕たちは原発事故の被害者です。避難民です。被曝民です。なんでふるさと浪江を追い出されて流浪の民になったのか。なんでチリジリになって、よそで小っちゃくなって人生が終ってしまうのか。僕らはあまりに無念が深い。その無念を怨念に転換する必要があります。原発の時代を終わりにするんだ、国を相手にそのマグマのような怨念をもって闘うんだ。これはぼくらのカウゴジラの名前の由来です。ビキニ水爆実験で始まったゴジラの話はまさに僕に、原発事故で牛たちに放射能が降り散り、僕たちの身体にも放射能が入った。でもそれを糧として僕はつぶされない。僕は闘うんだ。原発事故を逆転させる、そういう残り人生にしていきたいと思っているんです。

※「ゴジラ」誕生は、映画公開と同じ年に起きた「第五福竜丸事件」。西太平洋のビキニ環礁」付近で操業していた日本の漁船が、米国の水爆実験による降灰を浴びて被爆した事件である。この事件が「核実験によって太古の眠りから目を覚ました怪獣が、安住の地を追い出されたことに怒り、東京を破壊する」という構想につながった。

※広島市教育委員会は、2023年度の小学生の「平和教育教材」から『はだしのゲン』を削除し、中学生向けの「平和教育教材」から、マグロ漁船「第五福竜丸」の記述を削除する。岸田内閣の「原発政策大転換」と同じ。