2017年12月7日、沖縄の緑ヶ丘保育園に米軍ヘリの部品が落ちてきました。幸い屋根の一部にあたって怪我人はありませんでしたが、あと50センチずれていたら子どもたちにあたっていたかもしれず、背筋の凍るような出来事でした。

その事故から3年目の今年の12月7日、東京・文京区民センターで緑ヶ丘保育園のみなさんとの交流集会が開かれ、90名が参加しました。緑ヶ丘保育園のお母さんたちの活動を広く知らせようと「チーム緑ヶ丘1207」活動報告DVDの販売拡大に取り組んできた改憲・戦争阻止!大行進実行委「チーム緑ヶ丘1207」支援プロジェクト(百万人署名運動も参加)の主催です。
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コロナ感染が広がる中でオンライン映像での交流会となり、支援プロジェクトのメンバーにとっては初めての試みでしたのでどうなるか不安でしたが、何とか沖縄と映像がつながり有意義な交流集会となりました。

集会では、最初に緑ヶ丘DVDを短くまとめた「チーム緑ヶ丘1207のあゆみ」が上映され、その後、緑ヶ丘保育園と映像を繋げて、神谷園長やお母さん方からのお話をお聞きしました。
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上の「なんでおそらからおちてくるの?」というのは事故当時に子どもたちが発した言葉だそうです。雨しか落ちてこないはずの空から怖いものが落ちてきたのです。神谷園長は私たちに、これに私たち大人はどう答えることができるでしょうかと問いかけました。そして、パワーポイントを使いながら、3年前の12月7日の部品落下事故のこと、目の前の普天間基地のこと、お母さんたちの活動のことなど詳しく説明してくださり、雨以外に何も落ちてこない平和な空にするために、一緒に声を上げて行動を起こしていきましょうと呼びかけました。
(下の写真は、12月8日の琉球新報記事より。緑ヶ丘保育園側にて)
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神谷園長やお母さんたちのお話の中で、印象的だったことをいくつか紹介します。

ドーンという衝撃音、屋根の上で跳ね上がる物体を何人もの人が目撃、同時刻に園上空をヘリが飛んでいる写真もある、近くの収音機にも音が収まっている。それなのに、米軍は翌日の8日に、落下物はCH53の部品だと認めましたが、部品は全部回収しており飛行中の機体からは落としていないと言い張りました。政府も「ああ、そうですか」と言わんばかりの状況。これには大変驚かれ、おかしいと思われたそうです。

そうした中、神谷園長とお母さんたちは動き出します。子どもたちに怪我がなかったからよかったではすまされない、だんだんワジワジしてきたさーって声が上がり、3日後の緊急父母会で、全会一致で嘆願書作成、署名活動が始まっていきました。嘆願書の要望は、事故の原因究明及び再発防止、原因究明までの飛行禁止、米軍ヘリの保育園上空の飛行禁止の3つです。
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事故から6日後に、今度は保育園から1キロほどにある普天間第二小学校の校庭に7.7キロのもの(ヘリの窓枠)が落ちました。事故当時、下の娘さんが緑ヶ丘保育園に通い、息子さんが普天間第二小学校に通っていたお母さんは「怒りともどかしさと言いようのない感情の涙があふれて止まらなかったです。私たちはすぐに子どもたちを守りたいって声を上げました。回れるところをすべて回って要請して、保育園上空を飛ばないでとお願いしました」と語りました。
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神谷園長は、つらい体験として、保育園に誹謗中傷のメールが次々に送られたり、朝早くから嫌がらせの電話がかかってきたことを話されました。内容は、自作自演だろうとか、保育園は基地がつくられる前からあったのかとか、好き好んでそこに住んでいるんだろうとか、ひどいものばかりでしたが、神谷園長はその言葉に、普天間基地がどのようにつくられたか知らない人たちだと思うと言われ、普天間基地の歴史について触れられました。

神谷園長が示された1944年9月の米軍が上空から撮影した写真には普天間基地はなく、美しい琉球松の並木道が写っていました。1945年4月1日、米軍が沖縄島に上陸。まもなく米軍は琉球松を伐採していきます。そして、滑走路がつくられていくわけです。戦争が終わって、収容所から解放され、疎開先から沖縄に帰ってきた宜野湾の人が戻ってきたらそこは滑走路になっていたのです。しかたなくみんな自分の土地の近くに住むしかなく、滑走路を中心に宜野湾復興がなされていったのです。神谷園長もこの宜野湾市に生まれ育ってこられました。

現在は約10万人の宜野湾市です。
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ちなみに、普天間基地は東京ドームの約103個分の大きさとのこと。宜野湾市の1/4を占めています。

神谷園長は、「米軍は何のために1700メートル級の滑走路をつくったのか、沖縄戦の後に本土決戦を考えていたわけでしょう、そのために居座ったわけでしょ。でも、普天間飛行場は使われず、1962年までほとんど使われてなかったんです。普天間飛行場が使われていくのは復帰後です。復帰後に岩国や岐阜など大和から基地や海兵隊が来ていろいろ活発になっていったのです。」と言われました。私たちはこうした事実についてもっと知っていかなければならないと思いました。

もう一つ、飛行ルートのこともデタラメさも衝撃でした。
2004年1月に普天間基地のすぐ近くにある沖縄国際大学に大型ヘリの墜落事故がありましたが、その後、普天間飛行場の飛行ルートが新たに整備されて公表されるようになったそうです。その中では、緑ヶ丘保育園の上空も普天間第二小学校の上空も飛行ルートではないのです。しかし、米軍の飛行ルートを観測している沖縄防衛局のデーターでは、あたかも飛行ルートであるかのようにこれらの上空を飛んでいるのです。現実にはこの飛行ルートがまったく守られてないということです。

神谷園長、お母さんたちが口を揃えて言われていたことは、「事故から3年たったけれども、状況は何も変わっていません」ということでした。むしろ、外来機が多くなったり、騒音がひどくなったりで状況はひどくなっているそうです。
この集会当日も保育園の上空をF15ジェット機が2機続けて飛んで行ったそうで、その映像も流されました。保育園の建物の中でも耳をふさがないと痛くてたまらないほどの轟音と、怖いよという声が聞こえました。
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現在、小学校4年生の息子さんと6歳の娘さんがいるお母さんは、「チーム緑ヶ丘1207」の活動でこの3年間子どもたちに寂しい思いをたくさんさせてしまったという思いを語りながら、「国が動かないから、子どもたちとの時間を削って私たちが動かないといけない。3年たった現在でも、子どもたちは毎日毎日危険にさらされています。なので、私たちも立ち止まることはできません。」と言われました。その思いが胸に突き刺さりました。

神谷園長は、嘆願書をもってお母さんたちと沖縄防衛局、宜野湾市長、宜野湾市議会、外務省沖縄事務所、米国領事館、沖縄県庁に要請に行き、さらに東京の政府にも要請に行ったことを報告されました。しかし、いまだ保育園の上空を米軍機が飛び続け、いつ、なにが落ちてくるかわからない状況です。
神谷園長は「県知事選、県民投票、沖縄で何度民意を表しても解決しないということは、これは沖縄の問題ではないということです。これは大和の問題です」と言われました。そして、「皆さんの立っている場所から声を上げ行動を起こしてほしい」と訴えられました。

東京の参加者からも、羽田低空飛行に反対している皆さんや、横田基地に反対して上映会運動に取り組む方などから連帯の発言があり、最後に神奈川大行進呼びかけ人の野本三吉さんが「チーム緑ヶ丘1207」の皆さんの思いを受け止め、一緒に声を上げていくことを伝えました。
交流集会おわりに、東京と沖縄でエールの交換!
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●緑ヶ丘保育園のお母さんたちから、事故から3年目を迎えるにあたってユーチューブで講演会を配信しているとのお知らせがありました。ユーチューブの「チーム緑ヶ丘1207更新中」というチャンネルで検索してください。12月12日の20時からは、このチャンネルで「ことりフェス2020」をオンラインで開催するそうです。ぜひ、ご覧ください。(S)