とめよう戦争への道!百万人署名運動

署名運動をとおして、改憲・戦争への道を許さない闘いを全国的に広げていきます。

2008年08月

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 8月9日に在日本韓国YMCAホールで開催された「関東大震災85周年・朝鮮人犠牲者追悼シンポジウム」に参加しました。主催は同シンポジウム実行委員会です。満席で映画や盛りだくさんの講演が続きました。
 関東大震災があったのは1923年(大正12年)9月1日。1日の昼に地震が発生して2日にも余震が続き東京と神奈川一帯で10余万人の死傷者が出るという大地震でした。翌日「戒厳令」が布かれ、陸海軍が出動。その中で「朝鮮人が暴動を起こして攻めてくる」「朝鮮人が放火し、井戸に毒を投げ込んでいる」という噂が流され、内務省がこれを認めたこともあり、東京・神奈川・千葉・埼玉など各所で「朝鮮人狩り」が始まりました。警察・軍隊によるもののほか、民間の自警団によるものもあり、6000人余の朝鮮人が虐殺されるという大惨事が引き起こされたのです。ほかに、多くの中国人留学生にも被害が及び、また、日本人の労働運動家(河合義虎・平沢計七)、無政府主義者(大杉栄・伊藤野枝)らも殺害されました。

 なぜこんなことが起きてしまったのか?この時の日本はどういう状況だったのか?
1910年日本は武力により韓国を併合し、天皇の名の下に植民地支配をしていました。しかし、1919年3・1独立運動を契機に朝鮮民衆の民族解放運動が大きく発展していきます。これに対し日本は警察と軍隊による武力弾圧を全力で続けていたのです。でも、このような実状は日本の民衆には知らされず、逆に新聞報道で、日本人に危害を及ぼす「不逞鮮人」のイメージが広められていました。
 しかも、震災当時の警視総監・赤池濃は、3・1人民蜂起当時の朝鮮総督府警務局長でした。治安担当部署であった内務大臣・水野錬太郎ら内務省は、震災直後の大混乱で、民衆の不満の矛先が権力側に向けられることに恐怖し、「朝鮮人暴動」なるものを作り出し、戒厳令で武力制圧をしたのです。本当に許せません。私たちは、このことを語り継いでいかなければならないと思いました。絶対にくり返さないために。

 この日の講演で印象的だったのは、山田昭次さん(立教大学名誉教授)の「関東大震災の前夜には朝鮮人社会主義は・労働者と、日本人社会主義者・労働者との連帯行動が生誕し、これに対する治安当局の大弾圧がすでに開始されていた」というお話しでした。関東大震災があった年の前年のメーデー(第3回)に朝鮮人労働者・白武(ペクム)氏らが初めて参加し「ブルジョアには国境があっても、我々には何の国境があろうか」と演説したこと。すると、数千の日本の労働者が熱烈に歓迎したこと。第4回メーデーの準備協議会で「植民地の解放」がスローガンとして採択されたこと(メーデー当日は警視庁がこのスローガンを禁止した)など、85年前の日本の労働者と在日朝鮮人労働者の連帯がとてもうれしく、感動しました!
(事務局S)



 


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 やっぱり暑かった8月6日、でも朝から夕方まで、集会とデモを2つずつやりきりました。
ヒロシマ・ナガサキをくり返すな!そのためにはどうしたらいいのか? 
 8.6ヒロシマ大行動基調提起より―「核と人類は共存できない」というスローガンがあるが、資本家という核を必要とし原爆も劣化ウラン弾も平気で使う「人類」がいる。「核と人類」ではなく、資本家階級と労働者階級が共存できないということではないか。労働者が職場で資本の賃下げ首切り攻撃とたたかい、ストライキで戦争協力拒否をたたかえるような団結した力をつくることが求められている。学生は学園で、農民・漁民も、市民も、資本の延命策に動員されるのではなく、たたかって、たたかって、労働者民衆が主人公の社会をつくって解決していこう。―世界中のそうした力でこそ、核も戦争もなくしていけるという展望を明らかにしたヒロシマ大行動でした。

広島大学跡地前での早朝からの集会
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 反戦被爆者の会、大槻泰生さん
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 平和公園すぐ横で、式典参加の福田首相への抗議のシュプレヒコール(午前8時15分)
  「ヒロシマを靖国にするな!」
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 8.6ヒロシマ大行動会場(1900人参加)
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 青年労働者のゼッケン
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 デモ出発、前列の右から3人目がアメリカから参加されたアーリーン・イノウエさん。アーリーンさんは日系アメリカ人3世で教育労働者、ロスアンゼルスで学校内の軍国主義に反対して活動されている。
 
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全国から、思い思いのプラカードなどを持って参加しました。
 
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「僕もガンバッテいるよ」
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こんな、デモへの過剰警備、不当警備は許せない!
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デモへの声援がたくさんありました。
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平和公園で最後の「ガンバロウ!」
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 8月4日(月)、石原都知事に、今年の8月15日の靖国神社公式参拝中止を求める市民の集いと要請行動が都庁内で行われました。政教分離の侵害を監視する全国会議・日本キリスト教協議会靖国神社問題委員会・平和遺族会全国連絡会の呼びかけによるものです。
 石原都知事は2000年8月15日に靖国神社参拝を強行して以来、国内外の反対を押し切って毎年参拝をくり返しています。これへの異議申し立て、中止要請は今年で8回目、51団体が賛同して行われました。私たち百万人署名運動も賛同団体として参加、60名ほどで集会の後、石原都知事の代理として出てきた秘書の宮沢さん(知事本局秘書課副参事)に知事の参拝中止を強く要請しました。

            宮沢秘書
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 平和遺族会全国連絡会代表の西川重則さんは、「毎年8月15日の12時30分に石原都知事は公用車で来て靖国神社に参拝している。知事自身が都知事の「認証」行為として靖国神社を宗教法人と認証しているのに自ら公式参拝するというのは、憲法20条の政教分離に違反し自己矛盾している。公務員として許されない。」と批判、これに対する知事自身の返事が欲しいと求めました。しかし、宮沢秘書曰く「いろいろな方面からたくさんの申し入れがあり、知事としていちいちにコメントを発表するということはやっていません」(!?)と。このような申し入れを毎年しているのに、一回も返事をしようとしないとは、何という不誠実! というか、石原都知事は、あらかじめ聞く耳を持たない、門前払い同然、としか考えられません。この石原都知事のもとで、根津さんたちへの「君が代」処分も乱発されています。

        西川重則さん
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 靖国神社は、「天皇が神であり、その天皇の盾になって死んでいった魂を顕彰する」ところです。29年恐慌後の経済危機の中で日本の資本主義はアジアへの侵略戦争を開始したわけですが、戦争中、靖国神社は労働者・学生・民衆を兵隊として動員していく「国家装置」そのものでした。戦後、二度とそうならないようにと国家護持ははずされましたが、しかしうち砕かれることはなく、戦後も遺族の怒りや悲しみから戦争の原因を覆い隠しつづける「安全装置」として残されたのです。それが、現在は総理大臣をはじめ多くの国会議員が公然と参拝するようになっています。靖国神社の敷地内にある「遊就館」は、全館「かつての戦争は『自衛戦争』であり正しかった」と美化しています。「新しい歴史教科書をつくる会」の歴史観もここにあります。
 1200万余の東京都の知事としての靖国神社参拝は、戦争反対の都民への挑戦です。皆さん、石原都知事の靖国参拝に抗議し中止させましょう!






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 昨日(7/31)夕方、緊急の防衛省行動があり、参加しました。沖縄・一坪反戦地主会関東ブロックの呼びかけで、沖縄県議団の政府要請行動に連帯しての行動でした。沖縄県議団が7月18日の「辺野古新基地建設反対」沖縄県議会決議をもって7月29日に上京し、この3日間政府への要請行動に回っていたのです。29日に駐日米国大使、在日米軍司令官、30日に衆参議長、内閣総理大臣、財務大臣、31日には内閣府縄担当大臣、外務大臣、防衛大臣…と精力的な要請行動でした。
 防衛省前には、県議団から玉城義和さん(県議会副議長、ヘリ基地反対協議会顧問)がかけつけてくれました。玉城さんは、県議会の反対決議を一過性のごとくに扱う政府の姿勢を弾劾し、今回の県議会決議を新たな出発点として新基地建設阻止の県民運動・国民運動へと大きなうねりを作っていきたい、勝利に向けて沖縄現地はがんばる、と力強く語られました。私たちも本当にがんばらなくてはと思いました。

      アピールしている方が玉城県議 
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 関東一坪代表の上原成信さんや東水労青女部など労組の発言が続き、石破防衛大臣あてに「沖縄県議会決議を尊重し、辺野古沿岸への基地建設の断念を求める要請」書を提出しました。

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 ちょうど退社時で、多くの防衛省内労働者が正門から出てきましたが、誰一人「がんばってください」などと声をかけてくれる人は見あたりません。というより超「無関心」ふうに見えてしまう、これって、すごくコワイことだなあと思いました。

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