今から11年前(1999年)の9月30日、午前10時35分、茨城県の東海村にあるJCO(住友金属鉱山の子会社)東海事業所の化学処理施設で核爆発が起きました。日本最悪の原子力事故、大惨事でした。核燃料サイクル開発機構の高速増殖実験炉「常陽」向けの燃料加工の工程中に、ウラン溶液が臨界状態に達し核分裂連鎖反応が発生。20時間にわたって気体状の放射能と中性子線の放出が続いたのです。至近距離で致死量の放射線を浴び被曝した労働者3人中、2人が手の施しようもなくまもなく死亡。救助に来た消防署員、周辺住民ら667人が被曝しました。臨界事故直後から「9.30臨界被曝事故を許さない、真の原因と責任を究明する」と活動が続けられています。また、毎年9月30日の事故があった時間に、経済産業省前での犠牲者追悼と抗議申し入れが行われています。
 今年も、たんぽぽ舎ら「JCO臨界被曝事故11周年東京圏行動実行委員会」主催で抗議行動が闘われました。夜には、明大リバティタワー9Fで講演集会があり、参加してきました。集会には臨界事故被害者の大泉ご夫妻も参加されお話しがありました。大泉昭一さんは発言の冒頭「JCO臨界被曝事故問題は何も解決されていない。事故を風化させてはならない!」と訴えました。

「中性子線が私の体を突き抜けた」と語る大泉昭一さん
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 JCOの事故現場から道路一つ隔てたすぐ近くに大泉さんの自動車部品製造の工場がありました。事故当日、何が起こったのかも知らないまま働き続けていて、5時間以上も中性子線を浴びせられ続けたのです。大泉昭一さんは事故後、持病の皮膚障害が激しくなり、入退院を繰り返しました。お連れ合いの恵子さんも事故の晩から激しい下痢が続き、口内炎もできました。さらにJCOの建物を見ると体がこわばり仕事をすることもできず、胃潰瘍になり入院、PTSD(心的外傷後ストレス障害)の診断を受けました。大泉昭一さんは「臨界事故被害者の会」代表世話人としてJCOに健康被害の責任と補償を求めましたが、JCOは健康に影響はないと居直り責任をとろうとしませんでした。2002年9月3日、大泉ご夫妻は、JCOと親会社の住友金属鉱山を相手に損害賠償裁判を提訴。しかし、水戸地裁、東京高裁、最高裁とも反動判決で、大泉ご夫妻の訴えは退けられました。
 大泉恵子さんは怒りを内に秘めた静かな語り口でしたが、昭一さんは「地を這うような苦しみ」「生活者として生きていけない!」と語り、目に見えない放射能被害を認めようとしない政府への憤りをあらわにしました。そして、民主党政権が「CO2を出さない原発」などと言って原発を推進していることに対し、東海村の臨界事故のことを忘れてしまっているかのようだと危機感を表明、しっかり伝えておかなければならないと訴えました。大泉ご夫妻は裁判敗訴後も「臨界事故を語り継ぐ会」を結成し活動されています。82歳の大泉昭一さんの闘魂に強く打たれました。

講演に立つ槌田敦さん
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 この日は、槌田敦さん(核開発に反対する会代表)から「日本の核兵器原料生産の現状と9.30JCO臨界被曝事件」の講演がありました。槌田さんは、核兵器原料生産の4つの方法を説明し、日本の核武装計画は4つめの「軽水炉・高速炉方式」に集中していると説明。そして、JCO臨界被曝事故はこの過程で起きた大事故であると指摘しました。
 つい最近も、高速増殖炉「もんじゅ」でネジのゆるみによる落下事故が起きました。JCO被曝事故被害者の叫びを聞き、二度とこうした被害を出さないために、政府が推進する核燃サイクルをとめ、原発推進をとめなくてと改めて思いました。(S)